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Last Updated: 3 September 2006

土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、勝海舟に面会しその門人となり、神戸海軍操練所設立に奔走します。しかしその後、文久3年(1863)の八月十八日の政変、元治元年(1864)の池田屋事件と蛤御門の変(禁門の変)と続き、幕府は勝を解任。龍馬は大きな後ろ盾を失い、慶応元年(1965)神戸海軍操練所も廃止となってしまいます。龍馬ら塾生の後事を憂えた勝は薩摩藩に庇護を依頼、それを受けた薩摩藩は龍馬らに亀山社中を結成させました。

亀山社中

亀山社中は、慶応元年(1865)薩摩藩などの援助により、土佐の浪人坂本龍馬が、長崎・伊良林に同士と組織した日本最初のカンパニーといわれる結社です。メンバーは、幕府の神戸海軍操練所閉鎖に伴い龍馬と行動をともにした若者たちを中心に20数人、長岡謙吉・近藤長次郎・陸奥陽之助・沢村惣之丞など幕末の激動期を生きた志士たちでした。
亀山社中は海運業を中心とした商業活動のほか、薩長同盟を基軸とした倒幕運動に参画。幕末維新史において重要な役割を果たすことになります。

亀山社中 坂本龍馬
亀山社中 坂本龍馬

龍馬通り

寺町通りの禅林寺・深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道・石段のある通り。坂本龍馬をはじめ亀山社中の同士たちがどこへ行くにもこの通りを登り下りしたことからそう呼ばれています。

坂本龍馬 亀山社中
坂本龍馬の像 亀山社中

亀山社中の跡

坂本龍馬 亀山社中
坂本龍馬の像 亀山社中

亀山社中:この龍馬の像は、風頭公園にある坂本龍馬の像の原型だそうです。

坂本龍馬 亀山社中
坂本龍馬 亀山社中

亀山社中、屋内の様子

坂本龍馬 亀山社中内
坂本龍馬 亀山社中内

中岡慎太郎

天保9年(1838)土佐国安芸郡北川郷柏木村に生まれる。慶応3年京都白川に陸援隊を組織、坂本龍馬の海援隊とともに土佐藩の遊軍となった。同年11月15日の夜、龍馬とともに京都河原町の醤油商・近江屋で何者かに襲われて重傷を負い、17日絶命。享年30歳。

現地案内板より

日本で最初にぶーつをはいたといわれる男、坂本龍馬。当時土佐では身分制度がきびしく下級武士である郷士の家に生まれた龍馬はぞうりしかはけなかった。自由の地長崎に来て龍馬はぶーつをはいて大いに張り切ったという。
亀山社中創設130年記念事業に龍馬のぶーつを大きな形としてあらわした事を喜び、多くの御奉仕を戴いた方々に厚く御礼申し上げます。
諸兄妹も龍馬にあやかりぶーつをはいて舵をにぎり往時をしのぶようお試しください。
平成7年10月吉日  亀山社中ば活かす会

平成7年10月28日、亀山社中創設130周年を記念して亀山社中ば活かす会が、亀山社中前のポケットパークに建立しました。「龍馬のぶーつ」を履き、舵輪に手をかければ、130年も前に長崎港から世界に向けて船出していった龍馬や海援隊志の気分を味わうことができます。

坂本龍馬 龍馬のぶーつ
坂本龍馬 龍馬のぶーつ

龍馬のぶーつ像

幕府はイギリスなど諸外国に長州藩との武器の取引きを厳禁しており、長州藩は近代兵機の調達が出来ない状況にあった。一方の薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。そこで亀山社中は薩摩藩名義で武器を購入後それを長州藩に転売し、引換に長州から薩摩へ米を回送することを申し入れ、薩長両藩ともにこれを受け入れた。そうして長崎の武器商人グラバーから大量の最新兵機購入に成功した亀山社中は、近藤長次郎などの活躍で蒸気船ユニオン号の購入にも成功する。年が明けた慶応2年(1866)、薩摩側は西郷と小松、長州側は桂が代表となり、龍馬が立会人となって薩長同盟が結ばれた。